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電子本と活字本 「わたしんちの岡田茂吉研究」
ブログ電子本にしたもの

わたしんちの岡田茂吉研究電子書籍版

ようやく一冊購入者が出ました!!

そこで張り切って紹介ページを作りました。(まだ途中ですが)



案内ページ へのリンク






実際に本にもしてみました。

おお0~よく出来ている! と自画自賛。

でも一冊なので3600円くらい(送料500円)かかったので、電子本は安い。

そのうち公開します。


# by akyooon | 2012-04-13 14:21 | 岡田茂吉研究 | Comments(0)
ブログ統合
「わたしんち」はブログ統合しました。

仮題として、
自然と命の共鳴

http://yuwa.cocolog-nifty.com/blog/


岡田茂吉研究と医学革命と
医学革命と雑多な情報の
統合です。

つまり岡田茂吉研究と医学革命はその中に含まれるという事でメインではありません。

が、わたしんちではかなりのベースになっています。

かといって、今の私は岡田茂吉信者ではありませんので、すべての論を信じるわけでもありません。



主に音声にしてアップする事を心がけます。

よろしくお願いいたします。

もちろん取捨選択が必要です。

おそらく間違い、勘違いが多々あると思いますし、日々思考も変化するのと同様、古い記事と新しい記事がまったく反対になる事もあります。

あくまで「わたしんち」の思考であり嗜好によるものです。
# by akyooon | 2008-05-20 19:03 | 岡田茂吉研究
岡田茂吉論文の柱となる医学の革命論
以下は岡田茂吉論文集から抜粋したものです。


医学の革命ということが自然と判明してきます。
これは故人となられた庭山十郎先生が小冊子として編集されたもので
そこから、一部をのぞき転載させていただきました。
    ーーーーーーーー以下引用ーーーーーーーーーーーーーー

一、 「此の事実を何とみる  (医学の革命書(上)二一頁)
 現代医学は如何に邪道に陥っているか洵に明らかである以上、其の事の是正こそ人類救済の第一義でなくてはならない。


二、空前の難問題  (医学の革命書(下)ニ五頁
 吾等と雖も医学を非難する意志は少しもないが、只々事実ありのままを書かなくてはならない。それは病無き世界を造るのが目的である以上、医学の是正こそはその根本であるからである。                             ′

 三、病気とは排毒作用 (医学の革命書書 (上)一四六頁)
 もっとも基本的条件は人間から病を除去する事で其の為の重要なる点は医学の是正でなくてはならないと共に、茲に始めて一切の誤謬は解決し地上天国は成立するのである。

  四、本教と私  (地上天国第十八号)
今はまだ天国を造る上に、根本である健康に関する問題と農業に関する事だけの誤った点を神示のまま指摘しているのである。


  五、文化の迷蒙  (医学の革命書(上)一〇九頁)
(現代医学の迷蒙の)それがために幾千万の人命が犠牲になるとしたら、之以上由々しき問題はあるまい。寧ろ戦争にも劣らない悲劇と言ってもよかろう。


  六、現代医学論.(文明の創造l六四貢、医学の革命甘(上)五l貫)
 現代医学の病気を治そうとするその手段方法が、実は病気を作る方法になる事である。昔から医は仁術なりと言い、洵に聖なる業としていたものが、実はその反対の結果を招来するとしたら人類にとってこれ程の重大問題はあるまい。


  
  七、医者は果して無責任か  (医学の革命(下)九八号)
 比の医学迷信こそ世界中一番大きな迷信であって、之を打破しない限り病なき世界などは痴人の夢でしかないのである。


                                                                                                           八、現代医学進歩の窮極 (文明の創造一七三頁、医学の革命書(上)六三頁)
 今の内この誤れる現代医学に目覚め、積極的健康者を作り得る真の医学が出来なくてはならないのである。処が悲観するには当らない。何となれば神の大愛はこれを未然に防ぐべく、私をして真の医学の原理と治病の方法とを啓示され給うたからで、今現に素晴らしい成績を挙げつつあることである。


  九、浄霊の発明的価値 (文明の創造五〇頁、医学の革命書(上)三一頁)
 人類史上今日迄幾多の偉大なる発明発見はあったが之(浄霊)と比較し得る程のものは、未だ嘗てなかった事は言うまでもない。
 其の(科学迷信の)根強さは、恰度邪教迷信者と何等択ぶ処はあるまい。従って比の堅固な迷信の牙城を打破する事こそ、人類を救う唯一の条件である。
 只一日も早く比の一大迷蒙に目醒めさせ、病なき社会を実現すべく、吾等は燃ゆるが如き熱意を以て進みつつあるのである。


  十、結核と馬車馬 (医学の革命書(上)三六頁)
 (現代医学の迷蒙さを)忌憚なく言へば、盲目者が邪道を本道と思い違い、馬車馬的に走っているようなもので、寒心に耐えないのである。
 鳴呼、二十世紀の今日、之程の悲哀は他にあるであろうか。

  十一、「御陰話から何を得る (医学の革命書(中)一三〇頁)
 何しろ先祖代々からも子供の時からも、病気は医者、薬に限るものと根強く教育され其の観念が泌み込んでいる以上・・・・・結局絶対絶命の処まで追い込まれてしまう。そうして一番悪いのは薬であるが、その薬を一日も放す事が出来ないので緩慢薬毒病患者となり、遂に危険の処まで来るのである。
                                                                        

  十二、第三次戦争は免れることが出来る  (文明の創造四二貢)
 第三次戦争を免れんとするには比大浄化作用発生の必要のない迄に人間はじめ地上一切のものが清浄化されなければならないのは分り切った話である。では共の様に一切を清浄化すべき方法はありやというに、私はありと答える。それが我メシヤ教の使命であって、比事の為に我メシヤ教は生れたのである。


  十三、医学の革命  (文明の創造二六頁)
 一言にして言えば神様の第一着手としては、現代医学の革正である。之は人間の革命などとは異なり、神様の思召である以上絶対的であるから、必ず成功するとしたら一日も早く比事に目醒め、悔い改めて神を祈る事ある。


  十四、結核新薬を嗤う  (医学の革命書(上)九〇頁)
本教浄霊とは病源である曇りの解消法であるから之こそ真の医学である。従って現在の如き唯物医学を如何に研究したとしても徒労以外の何物でもないのである。という訳で私は比の真理を一日も早く全世界の医学者に分らせ覚醒させたい念願である。


  十五、御教え集第十三号四六責
 丁度医学に世界中塗りつぶされた様なものですが、そこに私が段々九分九厘の医学をやっつけていくのです。で九分九厘と一厘という事で一番の問題は医学なのです。之さえ本当になれば、無論貧乏も無くなりますから、戦争なんかも無くなるのです。医学と言っても問題は薬なのです。人間の身体から薬を抜けば全然病気もしなくなるから貧乏もなくなるし、争いを嫌いになるから戦争もなくなる、という事ですから、九分九厘と一厘という事の一番重要な根本は医学の革命なのです。之でミロクの世が出来るのです。


  十六、最後の審判  (文明の創造二八二頁)
 今日までの人類が犯した罪穢の内最大なものとしては、何といっても医学の娯りである。従ってこの事を充分肝の底から分らせ、悔改めさせる事こそ、救世上最も根本であるから、私は何よりもこの事に対し最大級の努力を続けているのである。


  十七、爆弾を抱いている現代人 (文明の創造二七七頁)
 霊界の変化とは段々毒が固らなくなる事で、いくら最新の医療や新薬でも、溶ける力の方が強くなるので、人間はバタバタ弊れる事になるのは、火を見るよりも明らかである。
 霊界の変化が一日一日強くなる以上、遂には医療でも固らなくなる。だから一刻も早く日をさまし、本教へ来る事である。


  十八、医学療法と信仰療法 (文明の創造ニ〇〇頁)
 現代医学こそ迷信であり、我医学こそ正信であると断言できるのである。つまり医学を信じて生命を失うか、信じないで助かるかのどちらかであろうと白ったら、恐らくこれを読んで愕然としない人はあるまい。
 医者や薬が無くなったら、世の中に病人はなくなると答えざるを得ないのである。以上の如く現代医学こそ、世界的迷信の最大なるものであって、人類から病を無くすとしたら、何よりもこの迷信を打破することこそ先決問嶺である。


  十九、医学は料学 支明の創造(二〇九頁)
 現代医学は料学ではなく推理的産物であり、迷信であるというのである。


  二十、現代医学を嗤    (医学の革命書六五頁)
 私が創成した治病原理とその方法こそ、最高科学である事が分かったであろう。にも拘わらず世人は、宗教家の説なるが故に何等の検討もせず、非科学と即断するのであるから全く科学迷信に捉らわれているからで、一日も早くこの迷信を打破しなければならないと痛感する次第である。


  二十一、御教え集第十八号五六貢
 これ(医学革命の書)によって人間の病気は全部解決した。人間死ぬ迄病気にかからないで無病息災で居られるという原理を書いてありますから、この本を一冊読めばもう病気の心配というものは無くなるのです。
 結局ミロクの世というものは、人間から薬を無くしてしまう事で、これでミロクの世が出来るのです。ただ薬という迷信が根強くはいっていますから、その迷信をぶち壊すという手数がわれわれがやる仕事です。神様が浄霊の力を与えたのは、浄霊というのは薬をとる事です。薬を減らす方法です。
 そういう様で、薬を征伐するというのが根本の仕事と思えばいいのです。


  二十二、スポーツマン早死の理由  (医学の革命書(中)一〇五貢)
 一日も早く現代医学の迷蒙を@らし、真の医学を確立したい念願に燃えている吾々である。


   二十三、御垂示錬第十七号ニ○貢
 兎に角私の本当の目的は医学の革命ですから、「アメリカを救う」というのは最初の小手調べに一寸出したのです。ですから狙う所は医学の革命です。革命という事は兎に角今までのものは無くしてしまうという事になります。だからこれは世界革命ですから大きな仕事です。その内でも医学というのは人間の生命を扱うものですから一番重要なものです。その重要なものに対する革命で、これは一つの戦いです。
 この医学の革令は最後においては世界全部が共鳴します。
 どうしても最後は医学の革令という事になります。


   二十四、御教え集第十九号四頁
 世界制覇を目的とする邪神の赤龍黒龍という連中は世界に勢力を張っている民族を出来るだけ弱らせ、最後は武力をもってやっつけてしまい、世界を自分のものにするという事を二千数百年前から計画を立てているのです。そしてその通になって来つつあります。
 そこでその手段というのが薬をのませる事です。薬でなく毒をのませて弱らせているのです。それで″薬は非常に効き病気を治すものだ゛という様に巧妙に瞞したのです。注射とか手術というのは、みんな邪教の巧妙な計画なのです。日本もそのお相伴をして今盛んに弱らせられている現状です。これが九分九厘です。九分九厘まで文化民族を瞞してしまったのです。それで私が医学の革命という事を始めたのは一厘の仕組みです。この九分九厘と一厘という言葉はそれが根本なのです。そうして目覚めさせるというわけです。今私が書いているのは「医学革命の書」というのです。これは人類から病が無くなるまでの聖書の様なものになるわけです。そういうわけで、医学革命というものは、そう
いう様に非常に深い意味があるのです。


  二十五、大恐怖時代来らん  (文明の創造二七八頁)
 実をいうと健康そうに見える人程危い訳で、それというのは薬毒が大いにあり乍ら、非常によく固まっているからなのである。従って愈々となると寧ろそういう人こそ一ペンに浄化が起こって、真先に槍玉に上げられる側の人と見ねばなるまい。
 愈々来るべき最後の審判に際しては、宗教は何の役にも立たない事になるのである。 それは帰する処本教に背を向けて滅びるか、本教に抱かれて助かるかの、二者何れかを選ばなければならない事になる以上、今から覚悟すべきである。これが今後に於ける全人類の課題でもあろう。


  二十六、薬が効かなくなった  (医学の革命素書(上)八六頁)
 何れは薬という薬は全部効かなくなるのは知れ切った話であるから、そうなったら大問題である。従って共の時の用意として今日私は活字に舌に出来るだけ警告しているのである。この結果現代医学は予期通り革命されなければならないのは火を見るよりも明らかである。


  二十七、先檻者の悩み  (救世の‡捷と桔‡一四〇貫)
 本教は他の新宗教と根本的に異ってっており、同様な点は殆んどないといっていい位である。それのみか、昔からある如何なる宗教とも大いに異っており其処に本教の本教たる価値があるのである。
 只私の説は時代より余りに進み過ぎているのであるが、玄で遺憾に思うことは、遅れただけ多くの犠牲者が出るのであるから、結果から言えば、救わるべき人が救われないことになり、その結果彼等は善意の罪悪を侵す訳になろう。この点世のジャーナリスト諸君に考慮を求めたいのである。



   二十八、救世教奇蹟集序文
 現庄の文明に一大欠陥があり、それが文化の進歩に甚大なる障礙となっている以上、これを根本的に除去しなければならないからである。
 その欠陥とは何かというと、これこそ科学至上主義であって現代人が科学によらざれば何事も解決出来ないとする科学過信というよりも科学迷信に捉われている事である。
 茲に於て神はこの迷信を徹底的に打破し、真の文明のあり方を私を通じて教えるのであって、これも全く時の然らしむる処である。


  二十九、結核信仰療法に就て  (医学の革命書(上)一三五頁)
 私は今回発行した結核信仰療法たる著者に就て少し書いてみたいと思うが、之を読めば分る通り、全く現代医学に対する原子爆弾であり挑戦状といっていいかも知れない。
 私の使命たるや人類救済であり、其の根本が医学の革命である以上何処迄も其の方針で進まぎるを得ないという訳で一度はこの問題に打つかるのは予め予期していた.


   三十、迷信時代  (医学の革命書(中)一七頁)
 現代を公正に批判してみると恐るべき迷信時代といっていいと思う。勿論その一つは医学であるが、これ程大きな迷信は世界挙って以来未だ嘗てないであろう。


 即ち新説の発表、新薬、手術、その他の物理療法にしても悉く迷信ならざるはなしである。というのも当然であって、何しろ肝腎な病原が全然分ってないからで徹頭徴尾暗中模索的である。処がそれを進歩したと錯覚しているのであるから実に情けない話である。従って病気の治らないのも当然である。つまり医療は治りそうに見えるだけの事で実際は全然治らない。それに気が附かないだけの事である。つまり病状にのみ心を奪われて症状だけを治そうとするので、その症状の発生すべき根源が分らないのである。丁度木の葉が枯れるのは根に異常があるからで、それが分らないのは土に障れて見えないからで無いと思って葉のみの研究に耽っているので、その無智哀れむべきで、迷信以外の何物でもないであろう。


  三十一、日本の危機 (栄光二二四号昭和二八・九・二)
 現代医学が如何に誤っているかは事実が示している。この医学迷信が生活難や犯罪の原因となるのは勿論頭脳衰弱の為め近来の如き事故の頻発・自殺、殺傷沙汰等社会不安は募るばかりである。以上の如き趨勢を以て進めば日本の将来は如何なる危機に直面するや逆賭し難いものがある。併し乍らこれを根本的に救う事も敢えて難事ではない。つまり私の言う通り実行すればいいのでこれ以外にない事は断言するのである。


  三十二、毒塊人間 (文明の創造七二頁、医学の革命書(中)三四頁
 近頃の如く社会各面に於ける忌まわしい問題の多い事である。交通事故、火災、鉱山の災害、殺傷沙汰、自殺、心中、裁判沙汰等の外、風水害、農村の病虫害等々、要するにその悉くは頭脳の明晰を欠く結果で、その原因こそ、薬害であるから、何としてもこれに目覚めさせなければならないと痛感するのである。


  三十三、医学封建 文明の創造二一二頁、医学の革命書(上)一三九頁)
 人間が人間の病気を治そうとするのは下剋上で逆であり、神位の侵犯である。この理によって人間の生命のみは世界中の学者が如何に努力しても、徒労以外の何物でもないのである。それに気附かず、見当速いの横道をひた走りに走っているのが現庄の医学であるから、その無智なる実に哀れむべきである。私は思う、今日の医学者こそ料学の亡者であり邪教迷信者と同様の心理である。…‥つまり公然罪悪が奨励されたのである。



  三十四、新聞の売薬広告  (医学の革命書(下)一〇一頁)
 恐る可き薬の害毒を知らない結果堂々たる大製薬会社を作り医師も協力し、政府も援助するとしたら現庄の如き病人氾濫時代を生んだのも当然、その愚及ぶべからずである。
そうしてこれが現代文明のあり方であってみれば、この迷蒙を打破するのが世界を救う根本であろう。従ってこの迷蒙に終止符を打つのが神から命ぜられた私の大任である。


   三十五、浄霊医術の実験  (文明の創造三三八貫)
 現代医学の欠陥を指摘し、医学が病気を作るという真相を随分思い切ってかき、信者は固より当局やその他の方面の人にも出来るだけ読ませるべく配布しているり何しろ文明史上類例のない重大問題である。


   三十六、医業者に警告する  (文明の創造五五貢)
 画期的真の医術が生れた以上、既成医学の崩壊は時の問題でしかあるまい。故に事ここに至っては、どうしても大乗的見地に立って善処するより外致し方ないであろう。然もこの救世の大業たるや神意の発動であるから、当事者は一日も早く一大決意されん事である。そうでないとしたら、泣き将来容易ならぬ事態に直面するのは火を瞭るより明らかである。
 私は今日迄凡ゆる方法によって、医学の迷蒙と薬の害毒を分らせるべく努力して来たが.何しろ長い間の医薬迷信に捉われている現代人の事とて、その困難さは並大抵ではない。
 然し如何に頑迷であっても、真理は飽く迄真理である以上、結局は兜を脱がぎるを得なくなるのも分っている。
# by akyooon | 2007-06-11 09:41 | 岡田茂吉研究
70年前の「現代医療の大誤謬」

70年前にこれを示していたのだが、どう変わったか現代医療?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー



現代医療の大誤謬



昭和11(1936)年執筆

 現在進歩せりと誇称し、世人もまたそう信じている医療なるものは、恐るべき程の大誤謬に陥っている事である。

それが為に病が治癒される所ではない。

病は大いに悪化されていたら、それを治ると信じて行っているとは、何と恐るべき事ではないか。


 難症という程でない一寸した病気に罹っても、容易に治らないというのはそれが為であり、又一度病気に罹るや持病になったり、慢性になったりするのもそれが為である。

多額の費用を使い苦痛を堪え忍びつつ受くる医療が病気を良化するのでなくて悪化さしているという事は、何と恐るべき事ではないか。

忌憚なく言えば、医療に救われるよりか、医療に害(そこな)われる方が多いという事は事実である。

たとえて言えば、三人助けて七人殺すという様な訳である。


 この根本的大誤謬は、近き将来において必ず専門家は固より一般に知識さるべき事は、火を睹(み)るよりも瞭(あきら)かである。

何となれば、誤謬や錯覚は決して長く続くものではない。

しかしながら、暴露するとしても、一日早ければ一日だけ人類は救われるのである。

私はそれらの点について悉(くわ)しく述べてみよう。


 病気とは、人間自身の自然浄化作用の課程現象であるという事は、再三述べてある通りである。

故に、発病するや発熱する。

この発熱なるものは頗(すこぶ)る貴重なものであって、発熱によって半分は治病されるのである。

これについて実際の例を挙げてみよう。


 結核患者における発熱に対し、医学は病勢悪化の為と解釈しているが、これは大いなる謬りである。

医学における結核患者と見なすものは、そのほとんどが頸部付近の水膿溜結と胸部脊〔背〕部におけるある部分の肋骨膜及び、その付近の水膿溜結であり、又、肺より出ずると思う咳嗽は実はそうでなくて、喘息の為のそれである場合がほとんどである。

未だ医学では喘息の原因が判らないが、これは胃部及び肝臓部付近に滞溜せる水膿が喀痰となって排泄される為の咳嗽である。

故に、発熱によって各部に滞溜せる病原である水膿溜結が溶解されるのである。

溶解した膿結は喀痰となり、又は排便と共に出ずるのである。

故に、発熱が高ければ高い程それは水膿がより固結せる為である。

この理によって病気治療上、発熱程貴重なものはないのであるに係らず、それに盲目である医学は、発熱を非常に恐れて下降せしめんとするのである。

これが為に、折角膿結を溶解せんとする作用を妨害するのであるから治癒するはずがないのである。

この理によって、医療を加えず放置しておく方が治癒する可能性がある訳である。


 今一つの例を述べよう。

それは扁桃腺炎である。

本療法によって扁桃腺炎は一、二回で完全に全治するのであるが、これは発熱がよく溶解させるからである。

しかるに、小児の扁桃腺肥大は治癒するのに、本療法によるも十数回を要するのである。

何となれば、発熱がないからである。

発熱がないという事は、患者が弱性の為に浄化活力が欠乏しているからである。

浄化力旺盛が発熱をさせるのである。


 今一つの例を挙げてみる。

本療法によって驚く程速かに治癒する病種はまず、盲腸炎、肺炎、肋膜炎、腎盂炎、睾丸炎等の熱性病であるにみても明かな事実である。


 次に結核予防として、風邪に罹る事を非常に恐れるのであるが、これも非常な誤りである。

結核の原因となる各部に滞溜すべき水膿溜結を、少量の時代に簡単に排除する自然浄化が風邪なのである。

故に、風邪こそ結核予防上最大な効果があるものである。

故に、風邪に再三罹る程、その浄化によって結核を免れ得るのである。

これに盲目である医学は、反対に風邪に罹らせまいとするから、そうすればする程、結核に犯されるという結果になるのである。

これを以て今日叫ばれている結核防止の手段は、実は結核増加の手段を執っているのであるから、官民ともにいかに努力するといえども、益々激増するのは当然な訳である。

噫(ああ)、医学の誤謬やまことに恐るべきである。


 次に、薬剤による病気悪化は、黙視出来ないものがある。

就中(なかんずく)、最も恐るべきは消化薬、下剤、解熱薬、強心剤、沃度剤等である。

その一々を説明してみよう。

近来頗(すこぶ)る多数に上りつつある慢性胃病患者はその原因として尽(ことごと)く消化薬である事は一点の疑がないのである。

これは私が毎度言う通り、消化薬を服みつつ、消化のいいものを食する時は胃が退化する。

胃が退化するからそれを行うという循環作用に因ってついに重症となるのである。

これと同じ様に、下剤を服めば排便器能が退化するから便秘する、便秘するから下剤を服むという循環作用によって、頑固性便秘症になるのである。

そうして、薬剤はその成分はほとんどが毒素である。

毒素であるが故に、効果があるのである。

それは実際をみれば能く判るのである。

ーーーー引用終わりーーーーーーーーーーーーーーーー




結核の時代から癌やエイズなどの重度の病気へと替わっただけで、基本は変わっていないようです。


# by akyooon | 2007-04-22 07:18 | 岡田茂吉研究
免疫と抗体論  ホメオパシーより

こちらにも転載します。


免疫と抗体についての勘違い


とても専門的に解説されているので、ちょっと抜粋しました。

後は実際にこのサイトにて全文を読んでください

TITLE:よろず屋瓦版3
DATE:2007/04/08 12:39
URL:http://homepage2.nifty.com/motoyama/my_bbs3.htm

いかに予防接種というものに人類が勘違いしてきたかという事をもっと詳しく知ることが大切です。

罪というものがあるとしたら、

真実をしろうとしない態度

なのでは

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

前略

そして肝心な点は、抗体というのは、免疫の指標とはならないということだ。抗体がなくても免疫を持っている人もいれば、抗体があっても免疫のない人もたくさんいるわけです。抗体がないから危険だ、というプロパガンダは誇張であり真実ではないんですね。予防接種をして体が抗体を作ったとしても、抗体と異物が一緒になったものを押し出すことができなければ、それは、体にとどまり続けるんです。この異物を押し出す免疫力というものを獲得するには、数年かかる。だから、生後1年以内に予防接種をするなんて本当はとんでもないことなんですね。
 それから抗体というのは、体の非常事態に作られるもの、血液中まで侵入した毒物に対して取る手段なわけです。そうなると、通常の免疫、T細胞(ヘルパーT細胞)というのが大きな役割を果たしているんですが、抗体が作られるときというのは、そのT細胞の働きが抑圧されるんです。どうしてかというと、抗体を作る働きとT細胞の働きは役割が違うから。本来ならば、血液中に直接異物が侵入するなんてことはない、だけど予防接種では直接血液中に異物が侵入する、それに対して体が一生懸命抗体を作る、だけどT細胞は学習していない。免疫のすべてが抗体を作ることに力を注いで、T細胞の働きは抑えられるんです。それでもT細胞が学習していれば、T細胞が抗体とくっついた毒物を認識して排泄することができるんですね。
 だから、抗体は作られるけれど、免疫はないという状況になるし、抗体を作ることに免疫のエネルギーが注がれてしまっているから、外から侵入してくる異物に対して無防備になってしまう。いわゆる免疫力が低下した状態になる。だけど体の中では一生懸命闘っているわけです。闘っているけれど、それが毒物の排泄につながらない。こうして、やがて慢性疲労症侯群や免疫不全の問題になってくるんです。皆さん、エイズっていうのは、エイズウイルスがないんですよ。抗体だけがたくさんあってウイルスはないんだよ。だから何がエイズを引き起こしているかっていうと、ウイルスではなくて、抗体ばかりが作られることで、T細胞という本来の免疫機構がおろそかになっている病気なんですね。症状を抑圧するということは、毒物を体の中にとどめさせる勢いなわけです。これをどんどんやることによって、毒物がどんどん血液中に侵入してくるんですが、そうなると抗体ばかりが作られ、実際の免疫力はどんどん落ちて排泄できないという状態です。
後略


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー


TITLE:よろず屋瓦版3
DATE:2007/04/08 12:39
URL:http://homepage2.nifty.com/motoyama/my_bbs3.htm
# by akyooon | 2007-04-12 13:28 | 岡田茂吉研究
近い将来医学は鉄壁の壁に突き当たるという預言

既に昭和11年の論文執筆に現代医学が近い将来突き当たるであろう鉄壁の壁を予測していたことになります。

しかし、その 近い将来  が

ずいぶんと長くかかったという事です。

それも必要あってのことでしょうが・・・

70年前もの古い論文を読んで、再び

近い将来

について考えてみましょう。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー 


現代医療の大誤謬

昭和11(1936)年執筆

 現在進歩せりと誇称し、世人もまたそう信じている医療なるものは、恐るべき程の大誤謬に陥っている事である。



それが為に病が治癒される所ではない。


病は大いに悪化されていたら、それを治ると信じて行っているとは、何と恐るべき事ではないか。



 難症という程でない一寸した病気に罹っても、容易に治らないというのはそれが為であり、又一度病気に罹るや持病になったり、慢性になったりするのもそれが為である。


多額の費用を使い苦痛を堪え忍びつつ受くる医療が病気を良化するのでなくて悪化さしているという事は、何と恐るべき事ではないか。


忌憚なく言えば、医療に救われるよりか、医療に害(そこな)われる方が多いという事は事実である。


たとえて言えば、三人助けて七人殺すという様な訳である。



 この根本的大誤謬は、近き将来において必ず専門家は固より一般に知識さるべき事は、火を睹(み)るよりも瞭(あきら)かである。


何となれば、誤謬や錯覚は決して長く続くものではない。


しかしながら、暴露するとしても、一日早ければ一日だけ人類は救われるのである。


私はそれらの点について悉(くわ)しく述べてみよう。



 病気とは、人間自身の自然浄化作用の課程現象であるという事は、再三述べてある通りである。


故に、発病するや発熱する。


この発熱なるものは頗(すこぶ)る貴重なものであって、発熱によって半分は治病されるのである。


これについて実際の例を挙げてみよう。



 結核患者における発熱に対し、医学は病勢悪化の為と解釈しているが、これは大いなる謬りである。


医学における結核患者と見なすものは、そのほとんどが頸部付近の水膿溜結と胸部脊〔背〕部におけるある部分の肋骨膜及び、その付近の水膿溜結であり、又、肺より出ずると思う咳嗽は実はそうでなくて、喘息の為のそれである場合がほとんどである。


未だ医学では喘息の原因が判らないが、これは胃部及び肝臓部付近に滞溜せる水膿が喀痰となって排泄される為の咳嗽である。


故に、発熱によって各部に滞溜せる病原である水膿溜結が溶解されるのである。


溶解した膿結は喀痰となり、又は排便と共に出ずるのである。


故に、発熱が高ければ高い程それは水膿がより固結せる為である。


この理によって病気治療上、発熱程貴重なものはないのであるに係らず、それに盲目である医学は、発熱を非常に恐れて下降せしめんとするのである。


これが為に、折角膿結を溶解せんとする作用を妨害するのであるから治癒するはずがないのである。


この理によって、医療を加えず放置しておく方が治癒する可能性がある訳である。



 今一つの例を述べよう。


それは扁桃腺炎である。


本療法によって扁桃腺炎は一、二回で完全に全治するのであるが、これは発熱がよく溶解させるからである。


しかるに、小児の扁桃腺肥大は治癒するのに、本療法によるも十数回を要するのである。


何となれば、発熱がないからである。


発熱がないという事は、患者が弱性の為に浄化活力が欠乏しているからである。


浄化力旺盛が発熱をさせるのである。



 今一つの例を挙げてみる。


本療法によって驚く程速かに治癒する病種はまず、盲腸炎、肺炎、肋膜炎、腎盂炎、睾丸炎等の熱性病であるにみても明かな事実である。



 次に結核予防として、風邪に罹る事を非常に恐れるのであるが、これも非常な誤りである。


結核の原因となる各部に滞溜すべき水膿溜結を、少量の時代に簡単に排除する自然浄化が風邪なのである。


故に、風邪こそ結核予防上最大な効果があるものである。


故に、風邪に再三罹る程、その浄化によって結核を免れ得るのである。


これに盲目である医学は、反対に風邪に罹らせまいとするから、そうすればする程、結核に犯されるという結果になるのである。


これを以て今日叫ばれている結核防止の手段は、実は結核増加の手段を執っているのであるから、官民ともにいかに努力するといえども、益々激増するのは当然な訳である。


噫(ああ)、医学の誤謬やまことに恐るべきである。



 次に、薬剤による病気悪化は、黙視出来ないものがある。


就中(なかんずく)、最も恐るべきは消化薬、下剤、解熱薬、強心剤、沃度剤等である。


その一々を説明してみよう。


近来頗(すこぶ)る多数に上りつつある慢性胃病患者はその原因として尽く消化薬である事は一点の疑がないのである。


これは私が毎度言う通り、消化薬を服みつつ、消化のいいものを食する時は胃が退化する。


胃が退化するからそれを行うという循環作用に因ってついに重症となるのである。


これと同じ様に、下剤を服めば排便器能が退化するから便秘する、便秘するから下剤を服むという循環作用によって、頑固性便秘症になるのである。


そうして、薬剤はその成分はほとんどが毒素である。


毒素であるが故に、効果があるのである。


それは実際をみれば能く判るのである。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー

# by akyooon | 2007-04-09 09:22 | 岡田茂吉研究
医学は病気を治そうという精神で結果は治さない行為ーか!?
数多い論文中の
基本中の基本となるでしょうか?

病気の苦痛の緩和を病気を治す事と勘違いしていた医学

についてですね。

今でも充分検討するべき、現代医学の勉強すべき主題となりましょうか・・



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

病気と苦痛



 人間一度病気に罹るとする。病気に罹ったと言う意識は苦痛である。言わば病気即苦痛である。しかし苦痛にも色々の種類がある。
これまでの医学は病気と苦痛を同じものにみていた。
それがため苦痛を緩和すればそれだけ病気も緩和すると思っていた。
この考え方が根本的に間違っている。
それを説明してみよう。
ここで最も多い感冒を取上げてみるが、まず熱が出るとする。
頭が痛いから氷で冷すや幾分楽にはなるが、それは病気が軽減したのではない、苦痛が軽減したのである。
これが根本的誤謬である。
それは病気と苦痛とは別々のものであって、実は苦痛を緩和すればする程病気は悪化するのである。
この説を見た現代人は余りの意外に唖然とするであろう。
しかし、これこそ絶対動かす事の出来ない真理であって、これを基本としなければ真の医学は生れないのである。
以下解くところによって何人(なんぴと)といえども衷心(ちゅうしん)から納得して一言の否(いな)を唱うる事も不可能であろう。
昔の人が自惚(うぬぼ)れと瘡気(かさけ)のない人はないと言ったが、誠に面白い比喩である。
実際どんな人間でも先天的毒素を保有していないものは一人もないと言っていい、しかも毒素保有量は予想外に多いものである。
この毒素とは薬剤の変化したもので吾らは薬毒と云う。
この薬と毒については別の項目に詳説するが、ともかく右の保有毒素は新陳代謝の活動によって、体内の各所に集溜する。
そうして時日の経過に従って漸次固まってしまう。
「毒素の集溜の個所としては神経を使う局所であるから、何と云っても上半身、特に首から上である。
」頭脳を始め、目、鼻、口、耳、咽喉部等々で、これは目の醒めている間ほとんど休む事はない。
特に最も神経を使うところは頭脳であろう。
従って、全身の毒素は頭脳に向って不断に集溜すべく動いており、首の周囲に最も集溜するのである。
それは、目、鼻、口、耳などの神経も実はその根原が頭脳にあるからである。
ほとんどの人間が首の周りにグリグリや塊りが出来たり肩が凝ったりするのは皆そのためである。
ところが右のごとく漸次固まった毒素が頂点に達するやどうしても健康に支障を及ぼすので、これの排除作用が始まる、これを浄化作用とも言う。
造物主は浄化作用に当って巧妙を極める。
それはまず最初発熱する(この熱については別の項目に詳説する)。
この熱で塊りが溶けるのである。
すなわち溶けて液体となった毒素は、一瞬にして肺臓内に入るや、間髪を容れず咽喉を通って外部へ排泄する。
これが喀痰である。
喀痰を排泄するポンプ作用が咳と思えばいい。
ただし後頭部から延髄部付近の毒素は鼻汁となって鼻口から出る。
そのポンプ作用が嚔(くさめ)である。
咳の後には痰が出、嚔の後には鼻汁が出るにみても明かである。
また、首から下の毒素は液体となって排泄される、それが盗汗(ねあせ)である。
また頭痛とは液体化した毒素がいずれかの口を求めて排泄されようとし、神経を刺戟する、それが痛みである。
その毒素は肺臓目がけて流入し、痰となって出るのである。
何よりも吾々が頭脳を浄霊するや、瞬時に咳と痰が出、頭痛は減るのである。
また節々の痛みとは、人間は常に手足を屈折するので、関節へ固まり、それの浄化が痛みである。

 右のごとく、人間の病気とは、溜った汚物の掃除である事を説いたのである。
従って、実は感冒程有難いものはない。
という事は、病気程有難いとも言えよう。
この理によって健康不良の原因は、汚物の溜ったためで、病気という清掃作用によって浄められ健康を回復するのである。
従って、病気の苦痛は、有難い苦痛なので、言わば清掃作用であるから、この苦痛を手をつけずにそのままにしておけば、はなはだしい苦痛はないのである。
ところが、医学は病気の苦痛を悪い意味に解釈し、止めようとする。
言い換えれば、自然に出るべきものを、出さないようにするため、自然と人力との衝突が起り、苦痛が増大する。
この自然抑圧法を治病の方法と錯覚し、進歩し来たったのが今日の医学であるから、いかに誤っていたかが知らるるであろう。
以上のごとく、毒素が局所に固まるや、浄化作用が起ると説明したが、これには条件を必要とする。
その条件とは、毒素を排泄する活動力、すなわち浄化力である。
この浄化力こそある程度の健康体、すなわち新陳代謝が旺盛でなくてはならない。
これを逆に解した医学は浄化発生を停止させようとする。
それには新陳代謝を弱らせなければならない。
それは健康を弱らせなければならない。
それは健康を弱らす事である。
その方法として唯一のものは薬剤である。
元来薬剤とは、実を言えば毒物である。
毒だから効くのである。
と云うとおかしいが、毒を服(の)めば身体が弱る。
弱っただけは浄化も弱るから、それだけは苦痛が減る。
それを錯覚して薬で病気が治るように思ったのが既成医学であった。
薬剤に限らず、あらゆる療法も同一で、熱があれば氷で冷し、氷で冷してせっかく溶けかかった毒素を元通り固めようとしたり、絶対安静とは運動を止めるから弱らすには何よりである。
病人でなくとも健康体でも数ケ月も絶対安静すれば胃は弱り、食欲は減退し、手肢は使わないから痩衰え、大病人になるのは必然である。
言わんや病人においてをやである。
また湿布であるがこれも弱体法である。
人体は口からの呼吸以外全身の皮膚面からも毛細管を通じて呼吸をしている。
それを止めてしまうのである。
何よりも湿布をすれば熱は減り、その部の苦痛は軽減するという事は湿布面だけは浄化が停止されるからである。

 以上のごとくであるから、医学が行うあらゆる方法は人体を弱らせ浄化を停止させ、以って苦痛を軽減させるだけのもので、今日に至ったのであるから、病気を治すと言う意味はいささかもないのである。
忌憚(きたん)なくいえば、医学とは苦痛を軽減させようとして、実は病気を重くしているのである

すなわち精神は治そうとするが行為は治さないようにしているのである。
嗚呼、何と怖るべき誤謬ではなかろうか。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー




# by akyooon | 2007-04-09 08:50 | 岡田茂吉研究
風邪引き結構
風邪を引かない人は要注意?

とは、この論文からですが、本当に内側から健康であるならもちろん風邪などひく必要もないr訳です。
しかし、そういう真の健康体の人はほとんど少ないでしょうから、やはり大噴火を小噴火ですましてくれる風邪こそ大いに引いて、真の健康体に近づくののが本命かと・・

やたらに丈夫で健康な人がいますが、これもそういう身体を選んで生まれてきた人と、本当はあるんだけどただ強力に固まっているだけの人という風に見た目ではわからないものです。

しょっちゅう病気ばかりしていたひとがある程度してからは、バカに健康になったりして・・
生まれながらの病弱な人がいつの間にか健康な身体になったり・・・

そういう過程を経てという意味はやはり風邪などの様な軽い浄化作用をくり返して体内の浄化を促進して来た効果なのでしょうね。

それでも人の寿命まで分かって生まれてきた人もありで、ずっと病弱で短命な人もいる訳で十把一絡げに言えないのが人の健康と命の長さと言えるでしょう。

しかし、ある程度の操作は自分でできる範囲もあるはづですから、いざ風邪や他の浄化の時にできるだけ自然に任せておくと、(運命の?)設定内の長短と健康度は自由になるのかも知れません。

分かりませんけど。


どうしてこれほど我々は薬信仰に洗脳されてきたのか?

これにはふか~~い理由があるのでしょうが、岡田茂吉は○○とされています。

しかし、今日の時代にこういう表現方法は受け入れられないかと思いますので、

僕の独断専行で言えば、

人類がこの地球上での進化のゲームを選択した時点で、人類の集合意識は体験の場において、病という設定をしたものだろう。
そして、簡単に言えば、病になるにはその原因を造らなければならない。
それが薬というもの。つまり毒物を薬と称して使い始めた。


しかし、現代ではそればかりではない。
薬のその奥には人の内と外の想いのズレが深い時にそういう病気という体験をして、修正のヒントと機会を得る様に設定してある。

だから、病気と言っても単純に毒(薬)を入れたから即病気という様にはならない。

原因、素材としての毒素を持っていたとしても、その人独自の人生背景の状況に応じて、発症したり治ったりして、人類の体験の深さに寄与しているものと推察している

と、なんだか、七めんどくさく書いているけど、

簡単に言えば、薬という毒で一時的に抑えつけても、その人に必要なときに、チャンと病気は起こるという事です。

それも無駄な事ではなく、最終的には死であってもそれが浄化の課程だということです。

なかには病気にもかかれないひとも居るわけで・・・・悪いわけじゃない。
ただ、単に固まっているか、そうとう丈夫な身体を選んできたかの違いもありでしょうが、前者の場合だとすると、のちほど大噴火する場合もあるというわけでしょうね、

単純に病気と健康とそのひとの生き様を固定できないのですから、方程式は書けないですね。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

御講話(S28年1月26日)


昭和二十八年一月二十六日

 風邪がはやってますが、私も流行の仲間はずれにはなれないので、十二日から風邪を引いてまだすっかりなおりません。しかしもうあらかたよくなってます。今度の風邪のしつこいのには驚いてしまいました。しかし私は風邪を引いても、仕事や生活の方はべつに変わりませんが、一晩だけ仕事ができなくて寝たきりでしたが、あとはふつうにしてます。しかし風邪はなおるに決まったものですから、苦しくない限りはいくら仕事をしても差し支えありません。ところが約半分くらいは風邪を引いているような話ですが、この時期に風邪を引かない人はどういう人かというと、うんと固まっているのです。固まり方が強いのです。ですからこういう人が溶け始めたら一遍ですからたいへんです。無論肺炎のような、ごく重いわけです。ですから今風邪を引く人はいくらか溶けやすい方ですから、非常に結構なのです。大事なくすむわけです。ところがせっかく溶けかかったものをワクチンとか、いろんなもので固めますから、それだけは始末が悪いのです。要するに今風邪を引かない人は、ごく頑固な人なのです。素直でない人なのです。だから一番頑固であって非常に危険性があるわけです。だから今度風邪を引かない人は大いに注意しなければなりません。では、これはいったいどこの浄化かというと、私のは、最初はめちゃめちゃに水洟(みずっぱな)が出たのです。鼻紙が山のようになるくらいでした。それはどこの毒かというと、頭全体の毒が溶けたのです。それが二、三日出ましたが、それがすむと頭が非常に軽くなりました。それから歯が痛くなりましたが、歯を浄霊すると水洟が出ました。ですから水洟は歯からも出るのですからおもしろいです。それがいったんなおってヤレヤレと思っていると、腰から足がだるいのです。それで「おかしいな、これはいったいどこの浄化かな」と思ってましたが、熱があって寒気がするのです。ですからちょっと仕事をして、十分か二十分寝ないと、どうも足が変なのです。ところが見ると、下腹の方に浄化を起しているのです。それでやっぱり、ここから咳と痰が出るのです。ですから風邪というと、肩か胸か首のまわりと思ってますが、とんでもないことです。下腹が風邪の原因ということになります。そこを浄霊すると熱が冷めて、寒気がするのがとれました。今度の私の風邪は、頭全体に歯茎に下腹です。だからふつうの人が、風邪を引いても分からないわけです。それからほかの風邪引きでは、家の者はみんなほとんど風邪を引きましたが、調べてみると首のまわりです。腹などは少ないのです。ですから、頭、首のまわり、肩というような所を浄霊すれば間違いありません。女中の一人でばかに咳をするので、見ると、ここ(延髄)に固まりがあるのです。それを溶かしたら止まりました。それで、ここならここが溶けて、それはどこへ行くかというと、いったん肺にはいって咳と痰になって出るのです。ところがそこで一生懸命に手当てをしたり薬をのんだりしていると、肺にはいった痰が固まってしまって、これが結核の因になります。そこで結核の原因というものは体中にあるわけです。それは肋間神経痛で咳が出る者もありますし、背中から出るのもありますし、股から出たりします。それがみんないったん肺にはいってくるのです。腰の辺から出る咳もありますし、それが因で肺病にされる者があります。だから胸の病というのはおかしいのです。ですから胸の病というのは医者がつくったものです。中には額から咳が出る人があります。額を浄霊すると咳が出るのです。だから肺病などで青い顔をしている人は、額の病、股の病、といっていいです。胸の病というのは本当ではありません。中間をいっているのです。それについて「風邪引結構」という論文を書きました。

 (御論文「風邪引結構」)【栄光 一九三号】

 今は浄化がだんだん強くなって、溶けかかるというと、今度はまた反対派の方では、溶けないようにできるだけ固めるという工夫を大いにやっているわけです。その一番の現われが、近ごろの肺病の薬です。そこでその浄化を止める薬の毒が進歩したわけです。だから肺病が減ったとか、寿命が延びたとか言っているわけですが、これは最後のあがきみたいなものです。とにかくここまでは医学が進歩したように見えるわけです。それでますます薬に大騒ぎをやってます。近ごろの新聞広告を見れば分かりますが、とにかく薬の広告が増えました。無論アメリカあたりもそういうわけです。そこで『アメリカを救う』の本は「結局薬は毒だ、のむものではない」ということが骨子になってます。そういうわけで、医学というものの根本、奥の奥は○○がやっているのです。○○は、人間の体を弱らせてだんだんフラフラにしてしまって、最後に武力をもって全人類をやっつけようというのです。

【以下略】
# by akyooon | 2007-04-05 23:06 | 岡田茂吉研究
風邪の原因をウイルスや細菌に持って行った医学の結果
いま医学の最終的な成果が現れつつあります。

というと、いかにも素晴らしい結果がでるかのように考えるでしょうが、

じつは・・・あまり声をおおきくしては言えないのですが・・・・


医学の行き詰まりが近づいて来た

と文字を大にして書いてみたいわけでした。

昭和10年当時、いまでいうウイルス原因説などはなかったのでしょうが、バイ菌という微生物にその原因を持って行った医学が果たして現在まで、風邪について新たな発見と治療法が確立されたのだろうか?

という疑問に、

医学はまったくほとんど進歩などしていなかったこの70年あまり

と書くと、あまりに言い過ぎなのでしょうか?


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

六、絶対健康の可能と長寿法

『日本医術講義録』第1篇、昭和10(1935)年執筆

 恐らく、人間として、絶対健康と長寿を冀(こいねが)わぬ者は一人もないであろう。しかるに、今までそれを求めようとした人類は、何に求めたかと言うと、それは科学に求めたのである。これがそもそもの誤謬の根本原因である。人間の肉体が、科学に依って造られたものならばいざ知らず、そうでない以上、科学で出来た薬や器〔機〕械で治ろうはずがないではないか。神に依って造られた人間である以上、生命の神秘やその構造の、霊妙不可思議なる、到底、今日の学問の程度では知る事が出来ないのは当然である。
 それは、草木の成長や、太陽の光の正体、天候の予測が付かないのと同じ様なものである。
 病気の原因についても、風邪の原因すら、未だ判っていないのであるのを見ても、思半(おもいなかば)に過ぐるであろう。今日、肺病とか、胃病とか、何々結核とか、何々炎とか言った所で、それは病気として、現われたる現象、言い換えれば、何らかの原因に生れた、その結果であってそれへ当てはめて病名を付けただけのものである。例えば、肺病に罹ったとする。なぜ、肺病に罹ったかと言えば、黴菌を呑込んだからと言うのである。しかるに、黴菌は誰しも、毎日、何万匹呑込んでいるか判らない。それなのに不公平にも病気に罹る人と、罹らない人とが出来る。
 医者は言うであろう。病気に罹るのは、その人が肺が弱いからであると。ところが、なぜ、肺が弱く生れたのかと訊(き)けば、その先は判らない。又、胃癌が発生したとする。その原因は判らない。子供がバナナを食って、疫痢になった事はよく聞く事であるが、バナナを食って疫痢になると決ってはいない。年中食っても疫痢に罹らない子供もあれば、又、食っても何ともない時と、罹病する時とがある。まさか黴菌のあるバナナと、黴菌のないバナナとある訳のものではあるまい。バナナは皮を剥いて食うものであるから、バナナ自身はみんな同じものでなければならない。しかし、今日の医学上、疫痢は、黴菌の媒介によるという学説である。そういう様な訳で、黴菌に依って感染するという事はあるには違いないが、この黴菌を人間に絶対付着侵入させないという事は、この複雑なる社会に生活している以上、絶対不可能であろう。ある程度までの衛生的予防より以上は不可能の事である。
 吾々が電車に乗るとする、お隣りに肺患者が乗らないと、誰が保証し得よう。又、冬など、閉め切った電車内、満員であれば、五人や十人の保菌者は乗合していない事はあるまい。まず、冬の電車に二三十分も乗ったら、一万や二万の結核菌は御馳走になると思わなければならない。次に、吾々が、毎日手で扱う貨幣である。紙幣にしろ、硬貨にしろ、肺患者や、梅毒患者が、タッタ今持ったかもしれない。それだというて一々消毒をするという事は、絶対不可能である。又小売商店の販売人等は、貨幣を手にする事、一日何十回なるを知らず、まさか、その度毎にフォルマリンの消毒をする訳にも行かないから、その手で飯も食えば、菓子も撮(つま)むのは当然の話である。
 菓子屋などを見てると、客から銭を貰い、勘定をすると、その手を以て、次に来た客へ売る菓子を直ぐに撮んで入れてるではないか。これらの実際を見る時、絶対に黴菌に侵されない様にするという事は、人類生活に一大変革の起らない限り、到底不可能な事である。絶対不可能でありとすれば、人間自身の身体の方で、たとえ、黴菌がいかなる場所から侵入するとても、決して病気の起らないという、鉄のごとき健康体を造る事が、理想的ではあるまいか。そういう不死身の様な身体が出来る方法が有り得るとすれば、こんな偉大な福音があるであろうか。それは私が創成した、日本式医学衛生を実行する事によって、必ず可能なのである。
 いかなる黴菌にも犯されないとすれば、その人は無病息災であるから、自然に、老齢天寿の来るまでは、生き得らるる道理である。まず、人間の天寿としては、九十から百以上は可能であるから、ここに、長寿の希望は達し得らるるのである。故に、絶対健康法と長寿は、切っても切れない関係である。
# by akyooon | 2007-04-05 22:37 | 岡田茂吉研究
風邪は唯一の浄化法
これも昭和11年のものですね。

さて、いつになったらこういう論が皆の目にとまるのかは分かりませんが、風邪をそもそも予防しようという思考自体が基本を離れているという事のようです。

なぜなら、火山の大噴火を小出しにして被害を少なくする小噴火の様な役目をしているのが、風邪という浄化作用だからです。

もちろん、体内にそういう原因が無くなれば風邪もひく必要もなくなるでしょうが、生活している以上なんらかの毒素、汚物などが溜まるのはやむを得ないのが人間だとすると、この風邪引きという浄化装置が備わっていなかったら、他のいかなる病気になるか分かりません。

風邪という簡単でしかも安全な方法で浄化できる喜びが腹の底からわかれば、今後あらゆる病気が激減して行くでしょう。

風邪を万病の元などと思いこんだ医学が、本当に風邪を万病の元に持って行ったのは、その治療方法と予防(ワクチン接種など)法にあったと知ったとき、

アキョ~~ン

と腰を抜かすこと間違いなし!!



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー
風邪は唯一の浄化法

『明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法』昭和11(1936)年5月15日発行

 いかなる健康人といえども、遁(のが)るる事の出来ない病気は、まず風邪であろう、しかるに昔から、感冒は万病の因、と言って、非常に恐れるのであるが、これは大変な誤りである。ここにまず、風邪の原因を開明して、風邪は決して恐るべきものではないばかりかこの病気あるが為に、いかに人間は、恩恵に預かっているかという、私の研究の成果を発表したいのである。
 元来人体は、その高等生活器能が、頸部以上即ち脳及び顔面に、集注されている関係上、その器能の活動に要する、エネルギーとしての血液は、常に上部に向って、昇騰し勝ちである。しかるに、現代人の大部分は、汚濁せる血液の所有者であるから、その汚血も共に昇騰するので、その場合、頸部以上の高等器能を活動させるには、ある程度の浄血でなくてはならないので、その血液輸送門にあたる肩凹(けんおう)部及び頸部において、濾化浄清の自然作用による、残渣(ざんさ)即ち血液中の汚素が、絶えずその部に滞溜するのである。今一つは、肺臓の呼吸運動による空気中の塵挨吸入に因る残渣、それが上昇しては、肩胛部に滞溜するのである。今一つは、病的でない位の、軽度の脊髄〔椎〕カリエスに因る膿汁が脊〔背〕部の皮下を、通過上昇して、肩凹部及び頸部に集溜するのである。随って、頸部付近は人体における、汚物堆積所とも、言うべき場所である。
 これら、種々の汚物の滞溜は、ある程度の量を越ゆる時、必然に重患が発生する順序になっている、それを回避せんが為、自然は巧妙にも風邪なる、簡単にして奏効する、浄化作用を行う事になっているのである。それは、風邪に依って、汚物は溶解し、鼻汁となり、喀痰となって、排泄さるるのである。発熱作用は右の汚物溶解の為である。この理を知れば、風邪は、何ら療法をせず放任しておけば、順調に治癒してしまうのである。この事を知らない世人は、不安の結果、種々の療法や、手当を為すのであるが、それらは悉(ことごと)く、療法ではなく、反対に浄化妨害となるのであるから、療法や手当をする程、治り難くなり、長びく事になるのである。例えば、解熱剤を用いるごときはそれである、何となれば、汚物を解溶せんが為の役目をする。その発熱を退散させんとするのであるからである。又、無理に汗を取る方法も同一の理で、これも、人為的解熱法であるから不可である。要するに、自然療法が、最も可いのである。この理を教えられて、それを信じた人達は、一文の金も要らず手数も要せずして、医療の時よりも、より速く順調に治癒するので、その意外に驚くと共に、大いに喜んでおり、風邪に対する恐怖から、解放された幸福に、感謝しているのである。
 又世人は風邪は万病の因と思い、風邪によって、各種の重患を喚び起すと信じているが、これも、非常な誤りである。又、医家もそう信じて、風邪に罹らないよう、実に努力しているのであるが、全く真相を知らないからである。そうして、重患に罹るという事は重患に罹るべき条件が具備して居って、いつ勃発するや知れないという時、たまたま風邪がそのチャンスを作るまでである。病気は一切汚物即ち膿汁滞溜の排泄作用であるから、一日も早く発生した方が、それだけ軽く済む訳である。随って、風邪によって発病する事は、むしろ歓迎すべきであって風邪に罹らなければ、幾分遅延して、発病するまでである。故に、発病が遅れれば、後れるだけ、より重症であるから反って不利であるのは、勿論である。
 もし仮りに、風邪を予防し得たとしたら、いかん、それこそ恐るべきである。それは滞溜せる汚物の浄化が行われないから、肺臓及び肋膜炎等の疾患を起し易く、なお、頸部付近の汚物滞溜は、送血器能を圧迫するから、上部の高等器関〔官〕活動のエネルギーに、不足を生ずるので、その結果、脳貧血、眼、耳、鼻等の疾患が起り易くなるのである。近来激増せる、近眼、肺結核、神経衰弱等これが原因が多いのである。
 この真相が知識されたなら風邪こそ、実に重患予防としての、大浄化作用であるから少しも恐るるに足りないのである。これ故に近来流行するマスクは、誤れるのはなはだしいものである。又、年々増加の傾向ある、自殺は勿論多くの犯罪は、神経衰弱者が多いという事である。又、肺結核患者は現在、全国に百二十万人ありとせられ、死亡率も、一ケ年十万人を下らないと言うに到って、この病患の撲滅には、官民倶(とも)に、頭脳を悩ましているのであるから、この私の説のごとく、風邪を予防しない事によってこれらの疾患の、激減する事は、断じて、疑ないのである。
# by akyooon | 2007-04-05 22:10 | 岡田茂吉研究
風邪とは素晴らしい排毒健康法
昭和27年になるともう少し分かりやすく書かれた論にしあげてあります。

しかも、風邪だけでなく、その経過によっては肺炎から結核への移行という解説もありで、体内毒素という見解を示した先駆的な論だと思いますが、最近までは「毒素」などと言おうものならお笑いネタにされたことを思い出しますから、その当時はきっと頭が狂っているんじゃないかと思われていたんじゃないでしょうか?

それはそうですね。まわりは医学教信者ばかり、しかも宗教信者がそういう事を言うだけでもう迷信視されていたんじゃないかと思います。

同じ信者でも自覚無しの信者さんがたですから、医学迷信、薬剤迷信などと言われても目をキョトンとしていたんじゃないかと(笑い)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

医療誤点の種々相
『結核信仰療法』昭和27(1952)年12月1日発行

 医療は毒素を固めて体外へ出さない方法であり、浄霊はその反対に溶かして体外へ排除させる方法である事は、充分判ったであろうが、何しろ人間は今日まで医学を信じ切っている以上、右の理屈が仮に分かったとしても、直に頭脳の切換えは無理であろうから、なお色々の面から解剖のメスを入れてみようと思う。まず今日流行している彼の気胸療法であるが、これも肺の外部にある膜と膜との間に空気を入れ、肺を圧迫して活動を弱らせ、呼吸を微弱にする方法で、それによって肺の内部にある毒素の浄化は弱るから、それだけ下熱し、咳も痰も減って空洞は縮小し、治るように見えるので、言わば肺臓だけの局部安静法である。このように医療は固める事を原則としている以上、医学の進歩とは固め方法の進歩でしかない事は、余りにも明らかである。何よりも安静中少しでも運動をすると、たちまち熱発するが、これは幾分でも浄化が発(おこ)るからで、医師は慌てて戒めるのは、毒結溶解を極度に恐れるからである。
 次に結核の特効薬であるが、これも同じ道理で、近年次から次へと新しい薬が出来るのは、残らず人体を弱らせ、固める効果を狙ったものであるから、よく効く薬というのは、副作用を紙一重というところまで起こさないようにして、毒を出来るだけ強めたものである。以上によってみる時、現在の結核療法は別段治病上の進歩ではなく、単なる固め方法の進歩でしかないのである。彼の造りつけの人形か生ける屍のごとく、何年でも寝たきりにさせているのは、自然に固まるのを待つ訳である。しかもそのため多額の費用を要し、仕事も出来ず感染の心配さえあるとしたら、何と憐れなものではなかろうか。
 滑稽なのは大気安静療法である。寒風膚をさす冬の夜、窓を開ッ放しにしてジット寝ているのであるから、これでは健康者でさえ我慢できない寒さの中で、衰弱骨と皮ばかりになっている上に、多少の悪寒もあるのだから、全く悲惨そのものである。それでも治るならまだしもだが、そのようにしてまでも悪くなったり、死んだりするのだから、その虐(むご)たらしさは言語に絶するのである。これも良い空気を吸わせんがためであろうが、実際からいって空気の善悪は、吾々の経験上余り影響はない。何となれば浄霊で治す場合、都会の悪い空気の中にあっても、治り方に異(ちが)いはないからで、第一空気に関係がありとすれば、農村に結核は少ないはずだが、近来は都会と余り異いがないとは、医学でも唱えているところである。そのほかこういう事もある。以前はサナトリウム等で日光療法を勧めたものだが、近頃は悪いとして廃めてしまった。これなども日光に当れば新陳代謝が旺盛となり、浄化が発り易いからである。要するに現在の結核療法(これは他の病気もそうだが)の根本的誤りは、再三いう通り病毒を固める方法を、治す方法と錯覚するにあるので、この点れに目醒めない限り、根治は不可能である。
 次に感冒について今少し言いたい事がある。それはまず風邪を引くや早速医者にかかるか、そうでなければアスピリン、葛根湯(かっこんとう)、お手製の玉子酒、蜜柑の黒焼などを服んで蒲団(ふとん)を被り、できるだけ汗をかくのをよいとしている。また懐都合のいい人は、姑息(こそく)な療法は危険であるとして、掛かりつけの医者に行くが、何しろ現代医学は風邪の原因すら分っていないのだから、患者の安心のいくような診断は言ってくれない。極力安静を勧めるくらいで心細い事夥しい。もしか肺炎にでもなったら大変だとビクビクもので、一日中体温計と首ッ引きである。ところがたびたびかいた通り、風邪くらい結構なものはない。身体のどこかに溜っている毒が、熱で溶け痰や洟水、汗などになって出るのだから、出るだけ出ればそれで治ってしまい、後はサッパリとし健康は増すので、早くいえばロハで体内の掃除が出来る訳である。ちょうど入浴は外部の清潔法だが、風邪は内部の清潔法と思えばいい。つまり皮膚に溜った垢を落すと同様、体内に溜った垢を落すのである。もちろん皮膚は手で洗えるが、腹の中はそうはゆかないから、自然は風邪という体内入浴法で洗ってくれるのである。これを考えてみれば実に造物主は巧く造ってくれたもので、全く風邪様々である。だから人間はできるだけ風邪を引くのが天理に適っているので、風こそ第一の健康法であると言ってもいい。しかもこれで治った以上、真の健康者となるから、結核感染の憂いなどは絶対にないのである。
 右のごとき自然治癒によれば、それだけ毒が減るから、風邪引く毎に軽く済むようになり、ついには全く引かなくなる。こうなった健康者こそ、通勤者、通学者は無休となり、いかなる階級の人も無病息災、年中無休で働かれ、日々愉快に仕事ができ、家族一同も病気の心配がなくなるから、これが本当の安心立命の境地である。そうして家庭の集合体が社会である以上、ここに天国世界は実現するのである。ところが今一つ知らねばならない事は、医療によって病気の治る場合もあるにはあるが、その理由は二つある。一は薬剤その他の方法をもって毒素を極力固めるので治ったようにみえるが、真の全治ではないから、いずれは必ず再発する。しかしそれを知らないため、医療で治ったものと思うのである。今一つは医療で固めようとしても、浄化力旺盛な人は固まらないで、自然に少しずつ排除されて治る事があるが、これは真の治り方であるから再発はしないが、こういう人は滅多にない。しかし最初から医療を受けず、自然に放っておけば、一層早く治るのである。
 この意味を今一層徹底してみるとこういう事になる。それは病気の苦痛のある間は浄化が行われているのだから、毒は減りつつある訳である。だがそれを知らないためと苦痛の我慢が辛いためとで、一時でも楽になりたいから薬を用いるのだが、ちょうどこれは借金を返すのは辛いから、一時延期するようなもので、日の経つに従い利子も溜り、再び借金の請求が来る。また延期をするというように、段々元利が増え、請求も厳しくなり、ついに延期が利かなく破産するのと同様である。ではどうすればいいかというと、最初の時に苦痛を我慢すればいいので、そうすれば苦痛は一時的で、順調に毒素は減ってゆくから、さほど長く続くものではない。急性病ならまず二、三日で済むと思えばよい。それ以外確実有効な方法としては本教浄霊のみである。
 また結核の間接的原因としての肋間神経痛であるが、この原因は意外なところにある。それは首から上の病気で手術をする場合、使用する消毒薬のためが多いのである。しかし医療は消毒薬は不可欠のものとしているが、この薬毒こそ実に恐るべきもので、この毒分は非常に強烈であると共に、筋肉から直接滲透するから量も多く、それが下降して肋骨部に固結するので、なお下降して下半身に及んで、種々の病原となる事もある。しかもこの毒性は執拗で激痛があり、治るにも長期間を要するもので、この消毒薬の害が判っただけでも、いかに多くの人が救われるかを私は常に思っている。
 次に医学の原理であるが、医学には原理がないと言ったら驚くであろうが、真に病原が分かっているとしたら、動物実験の必要はない訳で、何を好んでモルモットや二十日鼠など、多数の殺生をしなければならないかである。彼の駆黴薬六百六号にしろ、この薬は六百六回の実験を経て、ようやく完成したというのであるから、これだけにみても原理不明をよく物語っている。全く現代医学は原理ならざるものを、原理と錯覚しているにすぎないのである。
 元来病気なるものは、人体に現れたる現象であって、実体ではない事で、この区別を医学は知らないのである。何よりも病気の種類が多いという事は、現れたる部分が多いからで、その異いさが種々の病名となり医療もそれぞれ異うのである。
 ところが吾々の方ではあらゆる病原は一つなりとしている。この証左として、本教の療法を見れば分るが、いかなる病気でも、浄霊一本で治してしまうのである。ところが医学で唱える病理というのは、実は機械的測定の結果を基準とした推理憶測でしかないので、何よりも根本原理が分かっているとすれば、その原理通りに治療を行えばそれで治るはずで、あえて動物実験などの必要はないはずである。従ってこの事だけでも全世界の医学者に分らせたなら現代医学は科学的ではなく推理、機械、実験の三者による苦痛解消手段でしかない事に目ざめると共に既成医学は揚棄せざるを得なくなり、ここに医学の再出発となって、真の医学が生まれるのである。
# by akyooon | 2007-04-05 21:59 | 岡田茂吉研究
医学は非科学的?

だれもが医学とは科学の最先端を走っていると思っているでしょう。

先の論よりもさらに前になる昭和11年。
この頃の事だから時の官憲、当局に取り締まりの対象になってこのような論文は日の目をみなかったでしょうが・・・・

誰もがかかる風邪を基本として、いろいろな角度から切り口を変えて論を書いていたようです。
しかし、信者は信じたとしても、一般の人達には受け入れられないで来たのは事実のようです。

その証拠に未だに、風邪となれば薬や医者となっているのが現実ですから。

そうして、副作用(実はこれが主作用なのだが)による死亡や事故などがいま話題になっているタミフルという治療薬、しかし、タミフル以外の薬もやはり副作用があるのは当たり前。

なぜなら、「副作用のない薬など存在しない」のですから。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

医学は非科学的なり
昭和11(1936)年5月29日執筆

 西洋医学は科学的だというが、それは間違っている。なる程機械的ではあるが、科学的ではない事である。何となれば、その診断に当って、その病気の測定方針に確乎たるものがないのである。
 その証拠として、五人の医師に診察を受けるとして、五人共診断が区々(まちまち)であるという事の事実を誰もが知るであろう。もし適確なる科学的診断法があれば、それは何人の医師が見ても、同一の診断でなくてはならないのである。この一事だけにみても、私のこの説の当否は充分であると思うが、今一歩進んでその真相を暴露してみよう。
 西洋医学が進歩したというが、実際からいえば、医学としてはいささかも進歩しないどころか、反って退歩否邪道に低迷しているという方が当っているかもしれないのである。何となれば医学とは、病気を医する学問であるに拘わらず、医する事が出来ない。医するがごとく世人を欺瞞しているのが事実である。なる程、医療器械は頗(すこぶ)る巧妙になっている事と療法の複雑多岐に渉った事と、薬剤の種類の増加は僅かにあるが、それらは医学の進歩ではなくて、療法の巧緻化でしかない。一面から言えば不必要なまでの複雑化である。
 又、その外表に世人は幻惑されて、大いに進歩したかの様に錯覚しているだけなのである。実際を視よ、病理も病原も衛生も、その根本に向っての何ら発見はなく、十年一日のごとしである。病菌の種類の発見は確かにある。そうして、それの予防による減少の功績も認めるが、一人の伝染病を予防し得て、十人の他の疾患の増加の事実に盲目である。そうして、風邪の原因も熱の本体も不明である。人間の病気とは何が故に発生し、何が故に治癒しないかという事も全然不明である。その結果として、国民の健康が日に月に退化しつつある事実に直面して焦慮しつつも、どうする事も出来ないのが現在の状態である。又、病理といえども、科学的な確定がない。
 今療病に当ってまず根本としての方法は、病気の診断である。病原の探究である。その際病原としての発熱は、いずくにあるかを診査する方法を知らない。そもそも、発熱は身体のある一部に発生した病素を溶解すべく起ったものであるから、その発熱の根拠だけを治療すれば、速かに全身的に治癒するのであるが、現在医学の診断は、これを発見する事が不可能である。それは医療から転じて来た患者を、常に扱いつつある吾々は、医学の診断がはなはだしき疎漏(そろう)と杜撰(ずさん)であって、病原不明かあるいは誤診である事が、少くとも半数以上は確かにある事を知るのである。この事について嘗(かつ)て聞いた事がある。ある一人の医科大学生が常に、解剖実験を見る時、その診断と余りに相違するのである。ほとんど誤りの方が九十%位ある事実に驚いて教授に質問したそうである。すると教授の答にいわく、それは君人間の身体を外部から見るんだもの、違うのは当り前だよ、との事であった。これによってみるも、いかに出鱈目であるかが判るのである。事、人命に関するにおいて信じられない位の事実である。
 次に、病理及びその原因においては、何ら進歩の跡を見られないのである。病理とは何が故の発熱であり、何が故の痛苦であり、何が故の腫物であり、又、それらはいずれから影響し、何の為にそういう現象が現われたかという、それらの闡明(せんめい)である。又、原因とはその病理構成以前の否、病理構成状態のその根元の発見である。しかるに、それら根元の発見などは、未だ医学ではその端緒をさえ掴んでいない。もし医学において原因の説明をすれば、それは牽強付会(けんきょうふかい)でしかあり得ない。何ら科学的根拠があり得ないからである。医学においては、病理も原因もあらゆる病原は、頗(すこぶ)る単純にも黴菌一点張りである。しかも、その黴菌の感染のみによって、病気は発生するものと思っているのだから、発狂や癲癇、中風などの伝染病以外の病気に至っては、その説明は絶対困難である。それらを偶々(たまたま)説明してあるものをみれば、噴飯に価するごとき出鱈目さである。
 以上のごとく、病理も病原も何ら適確なる、科学的根拠がないから、医学の診断なるものは、実にその時における医師の推断が根拠となっている。故に、診断が的中するという事は、その医師の推理的頭脳が優秀であるという訳である。たとえていえば優秀なる易者は、比較的的中するようなものであり、相場師が前途の騰落を推断するそのようなものであるとも言えると思うのである。それがそれぞれの医師によって、診断が違うという原因であると思うのである。これにみても西洋医学なるものは、器械的ではあるが、科学的ではないというのである。
# by akyooon | 2007-04-05 21:51 | 岡田茂吉研究
ちっとも医学は進歩していなかった。それは科学では無いから
特集として、風邪についての論がある論文などを集めてみました。


だいぶ読みやすくなっている論文ですね。
それでも半世紀も前の論です。
いかに医学が変わっていないかがよく分かりますね。

あいかわらず、風邪の原理がわかっていない。だから、タミフルの副作用などで騒いでいるのでしょうし。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー
医学に望む

『地上天国』2号、昭和24(1949)年3月1日発行

 昭和二十三年八月二十五日発行東京新聞「筆洗」欄中に次のごとき記事があった。
「医者が家族の者の診察を嫌がる事は大抵の人は知っている。これは結局診断に迷うからだ。」
 ただこれだけの事だが、よく考えるとその内面に潜むものにすこぶる重大性がある。何となれば右は吾々もよく聞く事実であるが、そこには全然科学性がない事である。医学は進歩せりといい、しかも今日何人といえども医学は科学の埒外(らちがい)であると思うものはあるまい。しかるに家族の者を診断する場合、迷いが生ずるというに至ってはそこに科学性がないと共に、すこぶる危険ではあるまいか。もちろん医学に信頼性がありとすれば、家族の者に限って他の医師に扱われる事は不安であり、ぜひ自分が診療しなければ安心出来得ないというのが本当ではないか。そうでないまでも家族も他人も同一診断を得べきであるのが科学の基準性である。かく観じ来れば進歩せりと呼称する医学の診断なるものははなはだ頼りないもので、ちょうど易者の身の上判断と同工異曲のものと言われても否む事は出来得まい。僕(『神示の健康法』掲載時は吾々)は決して医学を非難する意志は少しもないが、どう推理しても前述のごとき結論とならざるを得ないと思うからである。

 聞く所によればあらゆる病気の中、最も一般的で軽病とされる風邪の原因が医学においては今もって不明とされている。これらによってみても、世人の信頼している程に医学は進歩していないのではないかと疑われるのは僕一人ではあるまい。(この部分は『神示の健康法』では削除)ゆえに吾々が要望するところのものは医師が家族のものを自己が診断するようになり風邪の原因がはっきりするようになるだけでもいいから、その程度にまで一日も早く進歩されん事を期待してやまないものである。



# by akyooon | 2007-04-05 21:43 | 岡田茂吉研究
70年前に書かれた論文「風邪の原理」
今、世間ではタミフルとかいう風邪の治療薬か予防薬かは知らないが、余計な毒物を人体にいれるという方法が治療と称されています。

70年前に岡田茂吉が風邪の原理と治療法について書かれた論文があるので、それを紹介して、いかに風邪というものが人体にとって必要な物かという事を理解すれば、タミフルなどという危険な薬物に頼らなくても、そもそも人体には自然良能力という素晴らしい力が備わっているのであるから、一切の治療法自体が余計なお世話をしているということに気づくでしょう。

その後、論文はより大衆に分かりやすく解説される様に変化してゆきましたが、基本的な事は変わりなく、この論が世界に示される事で、今の世界の医学の根本的は誤りにきづく人が凄く多くなるものと期待しています。

期待どおりに行かないとしたら、それはまだ人類に受け入れられない時期に無いということでしょうけど、分かりませんね。

とにかく、このブログを読む人はほんの僅かですから、そんな心配はいらないかも知れません。
相変わらず、医薬信仰は強大なものがありますね。

タミフルの副作用で驚いていること自体がもう相当古いと思うくらいですが、70年の重みと思っているのも僅かなひとたちに過ぎないのでしょうね。

岡田茂吉がよく「嘆息」という言葉を論文に入れたのが理解できます。
それほど迷信をひっくり返すというのは困難なことだという意味です。
ため息が出るくらい、医学信仰は根強く70年もすぎてしまったというわけです。

ふ~~~


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー




余が発見せる風邪の原因と其療法

『光明世界』創刊号、昭和10(1935)年2月4日発行

 輓近(ばんきん)医学は非常の進歩をしたという。しかしながら罹病率の王者を占め、また重病の先駆的危険を有する風邪の原因が未だ発見せられざると言うに至ってははなはだ以て心細い限りと云わざるを得ない。しかるに余は数年来、独特の神霊療法を施行中ついに、この風邪の本体を掴み得たのであって、人類の為、医学者の為、ここにその原因及治療上参考となるべき、余が研究成果を発表せんとするものである。ただし余は専門家に非ざるを以てその用語等不完全の点もあるべけれど賢明なる諸士においてその真意を汲まれん事を切望する次第なり。
 まず一度風邪に犯さるゝやその症状としては一発熱、二咳嗽、三喀痰、四鼻汁、五咽喉の疼痛、六頭痛、七眩暈(めまい)、八口腔の乾燥、九関節の疼痛等であろう。右の内二三四五を除く外はいずれも発熱に起因するものである。始めまず患者の頸部の周囲より両肩部を探査すべきであってこの方法として余は指頭を用いて万遍なく圧しつゝ探るのである。この時必ず数ケ所に左のごとき異触感の物体の在るを発見するであろう。即ち凝固せる、グリグリ又はやや硬化せる贅肉状の物又は板形状の固形物、又はプリプリせる袋状の物、又は弩腫〔張〕せる筋等である。しかしこれを最も適確に知るには相当の熟練を要すれどもある程度までなら何人にも探り当らるべし。
 しからばこの物体は何物なるやと言うにこれこそ風邪の真因本体にしてこの不可解なる物体が溜積してある程度を超ゆる時始めて風邪に犯さるゝなり。この物体を余は指頭の霊感及透視感に依て按ずるにそれは不純なる膿血の凝体及び不活動性の膿の凝結にして風邪菌の活動刺戟に遇って喀痰及鼻汁に変化すべき性質の物なり。さればかくのごとき不純物質が溜積せられたる時、偉大なる自然はこれを排泄浄化すべき大活動を起して人類の肉体をして健康長寿たらしめんとす。
 この自然の浄化運動こそは実に人間が風邪と名づけて至極厄介視するその物にして何が故にこの頸部肩部付近に不純物が溜漬さるゝやというに、そは人間が二六時中、呼吸しつゝある空気がその根本原因にして即ち空気中の塵埃が絶えず肺臓に吸入さるゝを以て、肺臓は間断なくそれらの塵埃を濾過溶解して浄化作用をなさゞるべからず。しかしその浄化作用を為すといえどもこの塵埃全部をして跡方もなく零にまで浄化さす事は不可能なるが故にその幾分の残渣(ざんさ)は液体となって排除せらるゝなり。さればその残渣液体は肺臓中の血管を通過昇流し肺門部を出て前述の頸肩部に溜蓄されつゝ時日を経てついに凝固するものなり。
 しかるに霊妙なる自然はこの人間の肉体に蓄積せられたる汚物を排除すべく風邪菌なる掃除夫を派出するのである。この菌が一度鼻口等より入らんか、忽(たちま)ち活動を開始し蓄積せる汚物の凝結体に向って突進し刺戟し溶解作業をなすなり。しかして溶解されたる汚物は鼻汁もしくは喀痰となって旺んに体外へ排泄せらる。しかしてなおも霊妙なるはこの凝体汚物を溶解するには熱の力を借らざるべからざるを以てこの掃除夫は熱を頻(しき)りに誘発して自己の作業に便ならしめんと努むるなり。しかしてこの汚物排除工作が終りを告ぐるに従って掃除夫は徐々として引上ぐるべく人間はこれを称して全快と云い安堵の胸を撫(な)で下ろすなり。しかしてこの風邪菌の発生に都合よき気候が冬季にして寒風吹き荒(すさ)む頃は最も活動力旺盛なり。
 自然は冬季においての人間の肉体大清潔法としてこの風邪菌なる掃除夫を無数に送って人間の健康を資(たす)け長寿を得さしめんとするなり。いわば神の恩恵的作業と言ってしかるべきである。故に万一この清潔法を施行せざらんか、頸肩部に凝積せる汚物は時の経るに従って倍々(ますます)固結する性態を有するを以て肺門よりの排泄物は出口を押えられ、ここに肺臓は残渣の停滞を来して肺の病因を作る事となり、又一方脳髄へ送流する血液は脈管を通過するに支障を来すを以て、脳貧血の病原を作る事ともなるなり。これを以て見れば、風邪なる病は実は病と称すべきものに非ずして、人類の健康を保持すべき救世主にてあるなり。故に人間は汚物の未だ多分に蓄積せられざる内に風邪に罹るほど軽微に済むを以って出来るだけ冬季の初めに清潔法施行を蒙るよう努むべきである。彼のマスクのごときはいかにこの真理に反するかは明かな事であろう。
 従って余は風邪を避くると反対に風邪を迎え入るゝべくなすよう、多数人に試み居るが、その好成績なるは実に意想外なるなり。最後に治療について述べんに、この蓄積汚物は、余の指頭より放射する霊光に遇えば忽ち溶解して普通の風邪は一回ないし三回位にて全治すべし。
 しかし風邪位は自然に放任するも良く速く治るなれども世人はこの理を知らざるを以てこの場合薬物、機械その他の療法に頼らざれば病気の進むごとく心配すれども、それは大なる誤りにて却て一切の手当は掃除夫の清潔施行へ対し邪魔にこそなれ、決していささかも助力とはならざるなり。ただし一応医家の診断を受くるは何ら差支えなく安全と云うべくとにもかくにも自然の掃除夫に一任なし居る程治療の速なるは経験によって明らかなり、ただこの場合頸肩部を掌(てのひら)にて摩擦するは相当の効果あり。
 この点において彼の薬物一切を用いざる渋谷の塩の谷博士及生長の家の谷口雅春氏の説等は斯界(しかい)における先覚者として推奨すべき価値ある事を述べて置く。
     (岡田式神霊療法創始者 岡田仁斎)

# by akyooon | 2007-04-05 21:36 | 岡田茂吉研究
長年の病気体験から学んだこと
たまには書いてみます。
長年の病気(浄化作用)が決して無駄ではなかった様な気がようやくしています。
病気にならなければ知ろうとしなかったこと、頭に入らなかっただろうということ、
数多くありました。

僕自身ではありませんが、たいせつな伴侶がすでに10年以上もの重度の病気を体験してきました。もちろん、それは僕自身の浄化でもあります。
これによって失った10年もの数々のもの・・・・・それは失意と後悔、そして無力感などなど・・
味わいました。
そして、宇宙はけっして一方的でないということも知りました。
それは、マイナスだけプラスだけという事象はこの地球上に置いてはあり得ないという事です。

マイナスの裏側にプラス有り、その逆も有りでしょう。
それをどう捉えているかの選択権が自分にあるというだけです。

たいていは世間を物差しにして起こった事象を判断しています。そして、それに照らし合わせて自分を裁きます。プラスかマイナスかという判定をくだしています。

それはいま肉体を持っている頭の判断でしかありません。

肉体をもっているという事、そしてこの3次元と言われる物質世界にフォーカスしているという事自体がもう、トリックの世界、マジックの世界ですから、錯覚の上に錯覚を重ねているのがわたしという僕です。

こういう事をおぼろげにもようやく知り得たのも病気というきっかけでした。

浄霊法がすべての病気を治すという
これも錯覚です。
必要あって病気なり、必要合って病気が治る

この奥の意味を知り得たとき、浄霊さえも外からの働きかけです。

自分が神とすると、主役は自分だからです。主役の自分が認めないとき、それは起こりません。

つまり、病気さえも神である自分の領域?が認めないと治らない、治ってもまた再発か別の形で浄化の状態を創り出します。

どんな素晴らしい癒しの光であっても、その人の本質が病気を治すタイミングでないとき、それは無効になります。

本来の神は自分自身にあるからです。

その神がいま必要としないとき、外からの働きかけ(どんな治療であっても)おそらく以上の様になるでしょう。

だから浄霊であっても他の治療であっても、どうしても治らないばあい当然あります。素晴らし浄霊だから何でも治してくれる・・・・・・神様の救済だから・・・という

しかし、その神は自分自身の内にいまします・・・としたら、時にはその神が許さない・・というより、必要としない・・・病気になっていた方がより素晴らしい状態なのだという事です。


治らないで死んで行く人、
肉体を種に考えると不幸で、嘆き悲しみます。
いくら霊界があるからと聞かされてもほとんどの人は悲しみます。
それは肉体に居るからです。みる視点がトリックにあるからです。しかもそのトリックが効いているからこそ、自分の存在価値があるのもしれません。

それほどのトリック状態にあるからこそ、喜怒哀楽の感情が湧いてくるわけですから、その感情を味わいつくすこと・・・・これこそ、この世界での体験をする・・・事なんでしょう。


そんな世界の中で病気を永く保つというのも、そうとうエネルギーを使っているわけです。
病気の人はエネルギーが足りないからだというのは一面の見方です。
病気を創り出すほどのすごいエネルギーを出しているのが病人です。
それがどんなヒーラーでも、すごい治病法といわれるものでも治らない・・・・というとき、それは、その病気の創造者(病人のことだが)がすごいエネルギーを持っているという事です。

ヒーラーもエネルギーを使っているとすると、それに打ち勝つほどのエネルギーを使っていることになります。

永い浄化のとき、人はいろんな原因を想像します。
あれが悪い、これが悪い、   と。
それが飲食したものであり、菌やウイルスであり、毒素であり、過去の罪穢れであり、霊症であり、神や先祖の戒告であり・・・

さまざまな原因を探り出そうとします。

しかし、それらは原因といってもひとつの材料でしかない、添加剤でしかない、そんなものはあっても無くても必要あれば、自分は何でも創り出せます。

それが自分が神であるという本質なのでしょう。


いまの時は、まさに何千年どころではない、何万、何十万、いや億にも達するかも知れない、ちょうどターニングポイントに当たるそうです。

この素晴らしいタイミングに地球に生まれてきた自分は最大最高の環境にあるわけです。そして、その億際一隅のチャンスをものにしようとしているのですから、肉体の病気や死など屁にも思えないほど、なんでも仕掛けて来るようです。

たとえ死であってもそのチャンスを生かす事ができたなら、立派に成功なわけです。

こんな事を思える様になったのも、やっぱり伴侶の永い間の病気がきっかけです。

表面上の意識などとは全然ちがった意識もある自分自身の神に近くなるほどそういう矛盾に見える現象が起こるようです。
また、これからもっともっと起こる様になるでしょう。

すべては自分自身の神に近い魂レベルによって、すべてがうまく行くように設定された安心の未来しかあり得ないのがこの世界なのかも知れません。

日々の生活の中、一時的な事に右往左往しながら、時にはこういう思考もありです。

まあ、一歩あるけばすぐ忘れて喜怒哀楽している僕ですが・・
# by akyooon | 2006-12-20 10:18 | 岡田茂吉研究
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